行ってください、震災記念堂
どれだけの都民が訪れたことがあるでしょう。
どれだけの都民が存在を知っているでしょう。
旧震災記念堂のある、現・横網町公園。
1923年(大正12年)9月1日関東大震災から17年経った1930年(昭和5年)、
震災記念堂は建立されました。
この地域一帯は、旧陸軍被服廠がありそれが移転したため、
大正の時代に公園として広大な地域を整備していました。
そこへ、M7.3の関東地震(その被害は関東大震災)。
当時の東京の人口が集中する下町地域であるこの場所に、
多くの避難者が押しかけました。
安全だと思って逃げ込んだこの地に、猛火が襲います。
ついに、もって逃げた家財道具に火がつき、あっというまに延焼。
この地だけで、なんと一気に3万8000千人ほどがな亡くなりました。
実は私も最近までその存在を知りませんでした。
でも、知ったら行かねばと思いました。
戦争の犠牲者を祀る立派な建造物は多いです。
ここも、東京大空襲の犠牲者と一緒ではありますが、
自然災害で亡くなった多くの人を祀っている珍しい場所でもあります。
この横網町公園は、「東京都慰霊堂」と「復興記念館」という、
大きな古い建物があります(どちらも無料)。
まず、東京都慰霊堂。
なかは、教会とお寺の中間的な雰囲気。
震災と大空襲の両犠牲者を祀ってあるだけ、とても重々しい。
入って左は、関東大震災の惨状の写真の数々。
右は、惨状の巨大な絵たち。
この東京が、わずか88年前、こんなひどい状態になっていたとは。
次の復興記念館。
その前に、記念館の横には、震災の猛火で溶けてひしゃげた鉄の物体。
大砲、大量の釘、印刷機等々。
どれだけの火のすさまじさかが、すごすぎて想像できません。
建物に入ると、予想以上の震災の遺品の数々。
火が襲う前に逃げ惑う上野のとある町の人々。
猛火で溶けた自転車。
そして、こんなものまで。
これ、この当時の地震計の記録なんです。
紙の表面を煤(すす)で真っ黒にし、地震の揺れと針の揺れを連動させ、
針が煤(すす)をこすると下の白地が出てくるという仕組み。
これを見て驚いたのが、なんと余震の多いこと。
ここにあるだけでも、翌年の2月までは大きな地震が起きています。
ここに納めきれないこれ以降の余震があることを考えると、
3.11も余震も当分続くな、と考えてしまいます。
2Fは、復興に向かう東京に関する展示があります。
当時から、アメリカなどから多額の義援金が送られてきていることに驚きます。
また、経済を盛り上げるために、行政が率先して施策を実施しているのもわかります。
また、記録も克明です。
そして、地震のおかげといってはなんですが、
この関東地震が、地震学の進歩を早めたこともわかります。
最後にこちら。
メッセージが強烈すぎて、とどめを刺されました。
日本人の、なんてたくましいこと。
復興に向けて止まらず走ろう、子どもたちよ勉強しよう、というものです。
寛永寺とは、東京上野は芸大の近くにある、徳川将軍家の菩提寺。
ここは、奇跡的に焼け残ったのでしょうか。
先人たちの、ただならぬ苦難と苦労の跡。
知ったつもりで全然知らなかったその姿の一部を見て、
自分の生き方を再確認させられました。
これを読んだみなさん、どうか一度でいいので訪れてみてください。
自然災害は実はとても身近だと、痛感させられます。
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