一般人の誤った、地球と宇宙への視線

2019/04/29

2012年4月12日付の時事ドットコムの記事
10日で1100万円超=宇宙機構のネット寄付募集-はやぶさ2が半分以上
で、やはり一般人は思い違いをしていると愕然とした。
ここでいう一般人とは、地球や宇宙研究と無関係な人々をさすことにする。
宇宙研究の話題は、わくわくして、希望があって、夢があって、自然の驚異を知らされる、
高度な思考力を獲得した人類ならでは叡智の結晶である。
では、地球の研究はどうであろうか。
わくわくして、希望があって、夢があって、自然の驚異を知らされる、
こちらも同じく、高度な思考力を獲得した人類ならでは叡智の結晶である。
宇宙の研究に対し、国の税金が使われることに
「無駄遣いだ」
「何の役に立ってるんだ」
「本当は知っているのに隠していることばかりなのではないか」
などの批判を向ける人はどのくらいいるだろう。
私の生きている限り、今のところ聞いたことはない。
だからといってゼロではないとは思うが、
多くの人がそのような考え方をしたことはないのではないだろうか。
だが、地球の研究にたいしては、
上に挙げた批判の言葉は、日常茶飯事である。
とくに、大きな地震が起きたときには100%これらの批判が出る。
「そもそも地球の話なんて、
わくわくして、希望があって、夢があって、自然の驚異を知らされる、
なんてことはない。だから宇宙の話とは大違いだ」
という人もいるかも知れない。
この種の人の勘違いは2種類ある。
a.地球を宇宙の一つとして見られない(灯台もと暗し)
b.地球のロマンより災害に重みをおく
なぜこのような勘違いが発生するかというと、
宇宙は物理的距離が遠い
「あさって」の話
地球は近すぎるし日々何らかの自然災害を耳にする
「今まさに我が身に迫る」話
だからではなかろうか。
研究する側から見れば、
地球研究も宇宙研究もどちらも人間生活を超越したところにある
自分たちよりはるか昔に生まれた先輩について、
その成り立ちや性格を「知りたい」という、
知的好奇心から発せられた研究である。
研究とはそもそも、知的好奇心を追求するものである。
とくに基礎科学である理学は、
人類に貢献するということ以上に、
未知のことを知るという役割のほうが大きいのだ。
人類への貢献は、その先にある。
未知のことを知らずして、新しい応用はできないのである。
だが、
「宇宙研究の意味は、資源開発だ。
地球研究にそれと同じ意味があるのか」
という人もいる。
資源開発。
そもそも、なぜ資源開発の目を宇宙にまで向けなくてはならなくなったのだろう。
言わずもがな、人類が地球を侵食したからではないか。
一つの星を食い荒らしたから、次は他の星を食い荒らせばいいのか。
エネルギー問題、地球環境問題が声高に叫ばれる昨今、
これに対し「yes」という人はほとんどいないだろう。
食い荒らした地球のことを考える、
自分たちの生活を見直す、
そのほうが大事であることは、よくわかっているはずだ。
それでもなお、宇宙研究には理解を示すが、
地球研究は無駄だと思う人がいる。
このような強情っぱりには、以下の質問をしてみたい。
もし、Aさんが
「私はJAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究者です」
といったら、あなたはどう思うだろうか?
「すごいですね」
と特に思考を巡らさずにいうかもしれない。
ところが、もしBさんが
「私は地殻変動の研究者です」
といったら、あなたはどう思うだろうか?
「地震予知もできずに、何が地殻変動だ!」
と食ってかかるかも知れない。
ところが、AさんとBさんは、実は同じ人の場合がある。
JAXAの研究者であっても、地球の研究をしている人はいるのだ。
これで、自分のなかに大きな偏見があることをわかっていただけただろうか。
研究と一口に言っても、
「人の役に立つ」ことと「未知のことを知る」
というのは、分離して考えないといけないのだ。
研究において
「人の役に立たないことはしてはいけない」
という考えは、
将来人の役に立つはずのことを根本から阻止してしまう、
愚かな考えなのだ。