鹿島の要石はなぜそこに
地震を起こす鯰を押さえる要石(かなめいし)。
こやつがもってるやつです。
行ってきました、鹿島神宮。
要石のホンモノを見に。
境内図を見ると、要石は神宮の奥の奥にひっそりとたたずんでいるようです。
看板に要石の説明があります。
しかしここには、高千穂神社との関係は1mmも記述されていません。
奥に進みましょう。
歴史を感じるたたずまいです。
この日は休日だったため、多くの観光客、じゃなくて参拝客が来てました。
鯰の碑と呼ばれるものがありました。
鹿島明神(=武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ))が鯰(=地震)を押さえつけている図柄の彫刻なので、コーフン・・・。
と思ったら、平成14年(2002年)寄贈とありますから、実に最近のものです。
これは、ある浮世絵(読売=瓦版)から拝借した図柄ですね。
この碑があるのは、ほんもの要石の少し手前。
要石をもっている鹿島明神の浮世絵は多数あるのに、この地でなぜわざわざ要石もっていない鹿島様を採用したのか疑問です。
その奥に、御影石の柱で囲われた空間が見えてきました。
ここの真ん中に要石があります。
手前の木札に、一茶の句が書かれています。
「大地震(おおなゐ)に びくともせぬや 松の花」
小林一茶は1828年没ですから、1854年の南海トラフ地震も1855年の安政江戸地震も経験していません。
なんの地震を受けて詠んだ句なのかが気になりますが、解明できませんでした。
それより、要石です。
いよいよご対面。
なんと、小さいこと。
いえ、埋まっている部分が大きいんです(のはず)。
で、なんでこぞって銭を投げてるんでしょ。
次々と来る観光客、じゃなくて参拝客を見ていると、みなくぼみを狙って投げています。
ははーん。地震を押さえることを祈りに来たんじゃなくて、投げ縄よろしく遊びに来たんだな。
それはさておき、気になるのは高千穂神社との関係です。
高千穂神社によれば、この要石は高千穂神社が寄贈したもの。
高千穂神社がわざわざ地元ではない石を贈るとは考えにくいので、本当であれば、こちらの要石も阿蘇からの溶結凝灰岩のはず。
結界が張られていて入れないので、またまたアップで撮影。
うーん、わかりません。
鹿島と高千穂を比べてみましょう。
比べる条件が悪すぎました。
表面の状態が違いすぎて比較しようがありません。
しかし、風化の仕方は似通ったものがありそうです。
夢中で撮影していると、何やら解説する声が。
警備員さんに質問している妙齢の奥方がいます。
警備員さんも聞かれてまんざらでもなさそう。
これはチャンスです。
奥方の後ろに並び、さぁ自分の番。
筆者「あのぅ。この石はいつからここにあるんですか?」
警備員「さぁ、ちょっとわかりませんねぇ」
筆者「この石は何石だかわかりますか?」
警備員「・・・」(なんの質問してきてるんだという顔)
筆者「あ、それはいいです。宮崎の高千穂神社では、この石は鹿島神宮ができるときに高千穂神社が寄贈したものだと言っています。ご存じですか?」
警備員「さぁ、そんなのは聞いたことがないねぇ。この神宮は2600年前からあると言われてるんだよ。まぁ、誰でも言いたいことは言えるからね。どうだかねぇ」(あざ笑われた)
筆者「要石についてさらに詳しくわかる方はどなたですか?宮司さんですか?」
警備員「神宮の歴史なら、やっぱり宮司さんかなぁ」(煮え切らない様子)
広い神宮で宮司さんは見つかりませんでした。
ということで、要石がなぜそこにあるのかはわからずじまいでした。
残念無念ととぼとぼ帰る道すがら、ふと目を上げると売店、じゃなくて社務所があります。
ここまで人気の要石ですから、何かしらあるに違いないと、大量の商品、じゃなくてお守りを目を皿にして眺め回ると・・・。
ありました。
要石お守り800円也。
紫地に銀です。
朱地に金もありましたが、要石を持つ人は金太郎じゃなく高貴な神ですから、紫に銀(≒石の色)にしました。
さて、結局要石のことがわからずキモチ悪くて仕方ありません。
そこで、地球視点から勝手に考察してみました。
要石は、陰影図でいうとこういうところにあります。
拡大図
この図は、電子国土Webからとりました。
何やら高台にありそうです。
東側は太平洋なのでほぼ低地。
西側は霞ヶ浦に隣接する北浦という湖。
低地と低地の間をぬうように台地が存在します。
要石は(鹿島神宮も)そのほぼ南端に位置しています。
このあたりの地震活動はどうでしょうか。
2018年に起きたM4以上かつ震度1以上の地震の震源はこちら。
(北は福島、南は三重までと限定しています)
2011年以降は東北地方太平洋沖地震の余震が多いですから、関東近郊で大地震が起きていない2009年も見てみます。
これらの図は、気象庁震度データベースから引っ張ってきました。
千葉・茨城・福島沖に、地震がたいへん多いことがわかります。
その理由は、この海域にはプレートのトリプルジャンクションがあるからです。
そのため、プレート運動が複雑で、地震が多く起きるのです。
鹿島神宮がある茨城南部は、今と同様、いにしえより年がら年中揺れていたのでしょう。
オマケに、近年のではない東北地震も関東大震災も、ずーっと経験してきています。
小さな地震から大きな地震まで常に揺れているこの土地のなかで、鹿島神宮のある台地は低地より揺れが小さかったと考えられます。
そこで、低地より確かに揺れにくい地盤なのか、電子国土Webで土地条件図を見てみます。
周囲の埋立地や低地と違ってそれなりに固い、更新世または完新世にできた台地であることがわかります。
とどめに茨城の「ゆれやすさマップ」を見ます。
メッシュが荒くて要石の場所をピンポイントでみることはできませんが、台地の南端は、周囲の黄色や橙色の揺れやすい土地よりは揺れにくい、黄緑色の表示になっています。
この辺りの低地は水が入り込みまくっていますから、揺れが強いだけでなく液状化もしたでしょう。
でも、ここの台地は液状化しなかったと考えられます。
ここからは、空想です。
大昔の人も地震は怖かったでしょう。
石がいつからここにあるのか誰も知らないことから、もしかしたら神社がある前からあったかもしれません。
なぜなら、地震をおさえるための祈りの場所が欲しかったから。
太古の人が、ここに地震をおさえる「強固」の象徴として大きな石を置き、動かないように埋め、そこに祈りを捧げたとは考えられないでしょうか。
・・・
要石は、いろいろナゾだらけです。
どこから来たのか。
いつからあるのか。
どんな大きさなのか。
どの種類の石なのか。
これを解明するには地球科学的アプローチ、すなわち、岩石の化学分析、年代測定、重力測定or地震波探査をすればきっとわかることでしょう。
でも、現代の科学者でも、結界まで破って石に傷までつけての調査は、地震と同様コワイものです。
どたなか、果敢にチャレンジしようという強気の研究者はいませんかねぇ。
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